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内村鑑三は聖霊により隣人愛に目覚めたハートの人だった

明治時代の知られざる覚者「内村鑑三」

明治時代には、目覚め体験(覚醒体験)をした人が少なからずいらっしゃいます。たとえば、

  • 伊藤証信(いとう-しょうしん)・・・真宗大谷派での信仰から無我苑を創設
  • 江部鴨村(えべ-おうそん)・・・真宗大谷派での信仰から無我苑に転向
  • 島地雷夢(しまじ-らいむ)・・・浄土真宗本願寺派僧侶からキリスト教に転向
  • 道旗泰誠(みちはた-たいせい)・・・浄土真宗からキリスト教・プロテスタント(メソジスト派)に転向
  • 綱島梁川(つなしま-りょうせん)・・・キリスト教を信仰
  • 内村鑑三(うちむら-かんぞう)・・・キリスト教・プロテスタント(メソジスト派)を信仰

という方々です。
有名でありながら意外と知られていないのが「内村鑑三」

内村鑑三の名前は、学校でも教わったと思います。著名な方ですね。名前だけでも知っている方も多いんじゃないかと思います。

日本に初めて本格的にキリスト教を広めた人として知られているんじゃないかと思います。

内村鑑三は聖霊体験をしていた

その内村鑑三。
実は「ハートの目覚め体験」をされていることがわかりましてね。キリスト教ではハートの目覚めを「聖霊体験(せいれいたいけん)」といっています。

わかりやすくいいますと、「隣人愛」に心底目覚めることですね。

で、内村鑑三さんは、これを如実に体験されていました。

内村鑑三「聖書之研究」

内村鑑三がハートの目覚め体験(聖霊体験)をしていたことは、雑誌などにくわしく書いてあります。

内村鑑三は、39才の年の明治33年(1900年)に「聖書之研究」という雑誌を発行します。これは日本で初のキリスト教雑誌だったといいます。

で、内村鑑三は「無教会(無教会キリスト教)」というスタンスで、どこにも所属しない立ち位置になったようです。

キリスト教は分派が非常に多く、明治時代には、メソヂスト派、改革派、長老派などのプロテスタント教会が広まり、中でもメソヂスト派が日本には多かったようです。

実際、内村鑑三もメソヂスト派の牧師から洗礼を受けたようです。

しかし、内村鑑三は思うところがあってか、どの教会(派閥)にも属さないスタンスをやがて選ぶようになったようです。それが40才のようです。

で、それの公宣なのでしょうか、「聖書之研究」を発刊します。

で、「聖書之研究」には、内村鑑三が聖霊の導きによって愛に目覚め感得したその心境を、生気溌溂(せいきはつらつ)として著しています。

内村鑑三は、聖霊体験、つまり神の愛を体験していたんですね。神さまからの恩寵を受けて、生涯、神の愛を感じた方だったことがわかります。

内村鑑三信仰著作全集(9)神 聖霊 三位一体

内村鑑三の聖霊体験(隣人愛、慈悲の体得体験)は、「内村鑑三信仰著作全集(9)神 聖霊 三位一体」という著書にもくわしく載っています。

たとえば、次のような記述があります。引用します。

聖霊を受けし時の感覚(p168)

聖霊を受けし時の感覚はこれである。すなわち、
こんなよいものは全世界にない。
これさえあれば余はなんにもいらない。

金はもちろん、位も名誉もなんにもいらない。
家庭もいらない(もし神の聖意ならば)
事業もいらない。

成功もほしくない(もし神の聖意ならば)
伝道に従事することができなくともよい(もし神の聖意ならば)

なんにもいらない。
ただこれ(聖霊)を永久に持っておりたい。
これに去られてはたまらない。
どうにかしてこれを永久にしておかなければならない。

ああ、平和、平康、安心、聖書に書いてある「人の思いに過ぐる平和」とはこのことであろう。

わが過去はすべて忘れられ、わが未来は希望満々とたり。

人生の意味はわかり、ことに苦痛問題は美事に解釈され、天は晴れ、地は動かず、木も草も、獣も鳥も、日も月も星も、みなわれに同情を寄するように思われる。

これがもし天国でないならば何が天国であるか。天よりくだる新しきエルサレムを、われはこの世においえ見ることができて、感謝する。

こんなうれしい事、こんなありがたい事を、余は余のこの世の生涯において実験しようとは思わなかった。

ああ今より後、永久続けてかかる歓喜にあずかりたいとは、あるいは望外の望みであるかも知らない。

しかし、よし一分間でもよい、一分間なりと、この世から天国をのぞいたのである。この一分間を得んがために、余の生すべての苦痛があったとするも、余は悔いない。

余はただこの昇天的歓楽を一度も味わわないで世を逝(さ)る人の多いのを見て、彼らのために非常に気の毒に感ずる。

余は今より後、余の死ぬるまでにかかる経験をなお一度も持つことができずとも、深く神に感謝すべきである。

内村鑑三のほとばしる思い

内村鑑三のほとばしる思いが、文章からも伝わってくるかと思います。

魂が震えるかのようなこのほとばしりこそ「愛のエネルギー」ですね。

感情とか気持ちではありません。エネルギーです。

聖霊体験した者の心境。ハートに目覚めた者の心境。

内村鑑三が、神の恩寵を受け、聖霊のはたらきによって愛に目覚めていたことは、著書のいたるところに書いてあります。

内村鑑三の文章を読んでいると、明らかに体験した人特有の表現なことがわかり、感銘を受けます。

聖霊体験とはハートの覚醒

ハートの目覚めもそうですが、真我体験をすると、人によっては、絶対的に救われた安堵感が生じます。

で、これがキリスト教における「救済」だったことがわかり、合点したものです。

キリスト教では聖霊体験といっていますが、仏教、ヨーガ、アドヴァイタ、スピリチュアルなどでは「ハートの覚醒」「慈悲の開眼」といっています。

エネルギー体験です。

キリスト教は素晴らしいかも?

最近、キリスト教に非常に関心を寄せています。毎日のようにキリスト教の本を読んでいます^^

この前、ようやくキリスト教の歴史本を読み終えました。電話帳のように分厚い本だったんですが、2000年の歴史がようやくわかりました。

で、キリスト教は素晴らしいかも。

今までキリスト教って、修道院以外の信仰は、聖書を読んで、イエスが残した教えを実践し、奉仕に生きる、そんな宗教なのかなと思っていましてね。

ところが実際は違います。ハートの体験が大変豊かな宗教であることがわかり、また粗削りながらも、そこに至るための方法もあったりして、見直しました。

ただ、聖書にも問題がありそうですし、キリスト教も問題がありそうです。そういう部分は差し引いてもリアルな体験も起き得ますので、その点は評価したいと思います。

キリスト教ではハートの覚醒を目指す

で、キリスト教では、祈りと聖霊体験によって、ハートの次元に開眼していくことを目指しています。

で、キリスト教の信仰とは、愛に目覚めること。

このことを、神からの恩寵、神の義、聖霊によるはたらきなどといった言い方をしています。

で、内村鑑三さんもそうですが、キリスト教の信仰と実践を通して、深い愛に目覚めている方々も少なからずいらっしゃいます。

プレゼンスとハートへの開眼

キリスト教の信仰もとても参考になります。

私としては、瞑想をおすすめしています。

まずは知性の飛躍となる「プレゼンス(名色分離智)」への開眼。そうして次に「ハート(慈悲)」の覚醒。胸の真ん中から慈しみのエネルギーがほとばしるようになります。

このほかにもありますが、まずはこの二つ。
智慧と慈悲。
プレゼンスとハート。
ハートの覚醒だけでも、内村鑑三の手記に似た体験をされると思います。

一瞥体験を聖霊体験として受け入れるキリスト教の素晴らしさ

キリスト教には、一瞥体験や覚醒体験を「聖霊体験」として受け止め理解する文脈があります。

これは仏教(原始仏教)にはありません。おそらく仏教は「悟り」が目的ですので、文脈が異なるんだと思います。もちろん仏教も「慈悲」をうたいますが、どこか「おまけ」のような扱いです。

しかしキリスト教は、仏教がおまけとしている「愛」にフォーカスし、その感得体現を目指しています。

で、「愛」はやはり大事です。特に社会生活を送る場合は、必須の心といって過言ではないと思います。

内村鑑三の手記にもありますが、愛に目覚めると認知も肯定的になり、ネガティブなことも、それまでと比べて好意的に受け止められるようになります。

愛は尊い。素晴らしい。必須の心でしょう。

今回、このことを発見し、気づいたことは大きな収穫でした。キリスト教への理解が、これからの歩みに役立ちます。

まとめ

それにしてもキリスト教は素晴らしい。

もっともキリスト教の成立過程をみていますと、仏教と比べて雑であり問題もあることがわかりますが、そうした数多くの問題がある中でも、愛の目覚め・愛の体現はホンモノです。

キリスト教に、こんなに素晴らしい愛の目覚め、愛の体現があったとはまったく知りませんでした。

キリスト教を信仰・実践している人の中には、愛を体現している人がいることを知って、目から鱗となったものです。

こうした高次の心を、多くの人が感得体現する必要がありますね。

100%でなくても、その味わいがわかり、わずかでも感得できればOKだと思っています。

そう思います。

で、こうしたことに気づかせてくださった内村鑑三さんには感謝です。

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