スピリチュアルでは「使命を持って生まれ変わってきている」というのを時々聞きます。
確かにそうした目的をもって生まれ変わってきている人はいると思います。
たとえば人間界をよくするために、天界から使者として生まれ変わってくる場合ですね。
しかし、こうした人は少ないと思います。
あと「使命を持って生まれ変わってきている」は一つの解釈の仕方ですね。
本当は、業報にしたがって生まれ変わってきています。自分で選択しないで、業報の道理にしたがって生まれ変わってきています。
が、道理にしたがっているのもの、それを「自分で選んだ」と理解してしまうと、「使命を持って生まれ変わってきている」という解釈になりますね。
業報にしたがうと、自分の意志とは関係なく、業報の道理にしたがって生まれ変わりますが、業報にしたがっているのを知らないと・自覚していないと、その業報の道理にしたがって選択したことを、まるで自分が選択したかのように思うこともあります。
この話しは運命論と関係があります。
子どもの頃に弁護士になる!と思って、弁護士になる人がいます。
しかし、実のところ「弁護士になる」という異熟(先天的傾向)があって、その異熟にしたがって弁護士になったものの、それを自分で選択したかのように現象が起きてしまうことがあります。
ここの意味はわかりますかね?
自分で選択したかのようにみえて、本当は業報の道理にしたがっていたという話しです。
すべてが、こうとは言えませんが、こうしたケースがあったりします。
あと、人生が苦しくて、業報を認めることができない、知的に弱くて「使命を持って生まれ変わってきている」と信じ込んでしまうこともありますね。
しかしながら名色分離智に開けてきますと、「使命を持って生まれ変わってきている」という安易なスピリチュアルな発想になりにくくなります。
名色分離智をおすすめする理由の一つは、おかしなスピリチュアルに洗脳されにくくなるからですね。観念と適切な距離ができると、地に足がついていない「使命を持って生まれ変わってきている」といった思想には違和感をおぼえるようになります。
逆にいえば、地に足がついていないスピリチュアルから距離を置くことができるようになるのが名色分離智ともいえます。
明快なリトマス試験紙だったりします。
と、ちょっとディープな話しですけどね。