【9/2新着情報】瞑想スピリチュアル総合講座開催!

私の修行経歴~一瞥体験・目覚め体験・覚醒体験など(詳細版)

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遍歴・歩み

で、こちらからの続きになります。詳細な私の修行体験や遍歴は、こちらに書こうと思います。

1965年北海道生まれ。

6才頃から「生まれ変わってきた」ことを実感

6才の頃、玄関の前で遊んでいたときですが、不意に「自分は、今ここで何やっているんだ?」という思いになり、この思いの裏側には「生まれる前に別の世界にいた」「生まれ変わってきた」という感覚があったものです。

当時は「生まれ変わり」という言葉を知りませんでしたが、感覚的に「生まれ変わってきた」ことを実感していました。

大自然の中にサムシング・グレート(神)を感じ続ける子ども時代

また自然の中に「何か偉大な存在がいる」というのを感じていました。サムシンググレートですね。言い換えると「神(創造主)」になります。北海道の大自然の中に、いつも偉大な存在を感じながら遊んでいたものでした。

子どもの頃から、こうしたスピリチュアルな感性で育ってきました。今でもこうしたのがあります。

14才:エゴの陶太に目覚める

その後、14才の中学2年生の頃から、自己の内面に関心が行くようになります。学校に提出する作文に「将来やりたいことは、自分が持つ醜いエゴを無くすこと」と書いたくらいでした。

もっとも思春期特有の多感な時期ですので、誰しも、こうした傾向は多かれ少なかれあったのではないかと思います。私の場合は、この傾向が強かったんだと思います。

16才:インドの輪廻転生を知って衝撃を受ける

高校一年生の6月だったと思いますが、生まれ変わりの仕組みを知って大変な衝撃を受けます。輪廻転生ですね。

輪廻転生のくわしいことを知ったときは、雷にバーンと打たれて、体に電流が走り、「輪廻から解脱するために生まれてきたんだ!」と天命をさとったほどでした。人生の方向性を直感しました。

これは決して比喩ではなく、本当に体に電気が走って、ババババーっとスパークしましてね。何かの箱が開く感じとでもいいましょうか。

で、その後、このときの直感通りに歩んできていますので、不思議なものです。ある種の啓示であるかのようです。とにもかくにも、輪廻転生に、すごいショックを受けたと同時に、この生涯で自分が歩む方向性を、このときに自覚したものです。

今は「生まれ変わり」に対して殊更な気持ちはありませんが、この時は衝撃的だったものです。

この瞬間、瞬間の行為が、未来を決定し、来世までも決めてしまう。いえいえ、現在の自分の有り様も、過去世の行為によって決まっている。

ちょうどこの頃、それまでと違って、何故か歯車が変わり、物事がうまくゆかなくなり、不遇感をおぼえることが多くなり、運命のようなものを感じていたこともあったと思います。

その頃の自分自身の状況も重なって、輪廻転生の実相は超弩級の衝撃で、輪廻から脱却したいと切望するようになったものでした。

修行を始める

それからは、いても立ってもいられなくなって、自分で工夫をして修行を始めます。解脱を目指して自己流の修行をはじめます。

ところが、具体的に、どうすればよいのかがわかりません。今と違ってわかりやすいガイド本なんかはありません。難しい宗教書ばかりです。

しかし、輪廻からの脱却を目指すなら、まず「善い人間になることが大事じゃないのかな?」、で、「善い行為というのが大事なのでは?」と思うようになります。

究極的には「神(創造主)のような存在になることが必要なのでは?」と思うようになります。当時は、そのように考えましてね。

善行に取り組んだが・・・

それで「善い行為」に取り組んでみたのですが、どうにもこうにもギクシャクしてしまいます。不自然なんですね。

そもそも「善い行為って何なんだ?」と疑問だらけなわけです。わかりません。さらに「善い行いよりも、悪い行いのほうが多いのでは?!」と愕然と気づいて、ショックを受けます。善行って何なのかわからないだけでなく、できないじゃん!

さらに、もっと掘り下げると「善い行為をするためには、『自分の心、本心、動機』が大事なんじゃないの?」ということに気づきます。

自己観察をはじめる

そこで自分の心を「見つめる・観察する」というのを始めました。自分の本心・本音が善い悪いかはなんとなくわかります。で、これに力を入れることになりました。

これは今でいう「観察瞑想」「自己観察」です。これを誰から言われるまでもなく、自分で思いついて始めるようなります。

そうして、
◆善・徳とは何か?
◆慈悲とはどういうものか?
◆神とは何か?
◆解脱・悟りとは?
がテーマになって、これらを考え探求し続けるようになります。

自分の心を深く観察。
動機を常に見つめ続ける。
自己観察・内観を行う。
自己を律し奉仕を心がける。
こうしたことを始めます。

苦しみながら・暗中模索・試行錯誤を繰り返す

と、まあ、こうして書くと、なんかすごそうに思うかもしれませんが、文字で表していますので、ザックリした一面だけが浮かび上がるだけでして、実際はしっちゃかめっちゃかで、泥臭く、苦しみもがき迷いながら、傷だらけになりながら模索していたというのが本当のところです。

当時は、善行の本当の意味がわかりませんでした。なので形(形式)としての善行になっていました。作った言動でした。

そのため不自然になってしまって、人から小馬鹿にされたことも数知れず。善いことをしようとして、かえってギクシャクしてしまう。人から気味悪がられる。

「なんでこうなるんだ?」「どうすればいいんだ!」と、つらい思いをしながらも悩むようにもなったものでした。

それと自己観察といっても、その動機なりの心が、本当に善いのかどうかを考え始めるとなんだかわからなくなります。考えるとわからなくなる。なんだ、なんだ・・・。

今でこそ、当時の自分がどういう状態だったのか、またどこに陥っているのかが明瞭にわかりますが、当時はわからず、ただただ適切な有り様を求め、もがき苦しみます。頭の中もゴチャゴチャとしてきて、なにがなんだかわからなくなることも。思春期という時期も重なっていたと思います。

それでも、真っ暗な海に向かって、小舟一艘でこぎ始めるかのようにして、暗中模索をしながら始めていきました。誰にも言うことなく、もがきながらも一人手探りをしながら修行を始めていったものでした。

18才19才:本格的に修行に取り組む

18才~19才からは腰を据えて実践するようになります。当時は、鬼のようにストイックだったものです。

しかし我流の「自己観察」であったため、自分の欠点や否定的な面ばかりに注意が向いてしまい、自己嫌悪、自己否定感が非常に強くなり、うつ病のようになってしまいました。

しかもじーっと「考える」ことも多かったため、悶々とするようにもなります。

今だからわかりますが、観察瞑想の落とし穴に、おもいっきりハマってしまったわけですね。

けれども心の底からは強烈な求道心の炎がわきおこり、苦しくても、わからなくても、手探りをしながらでも知りたい、答えを見つけようと必死だったものです。

20才:転機を迎える

けれども、自分を追い込むやり方自体が「マズい」、ストイックに行うこと自体が「マズい」ことに気づきます。やはり自分がおかしくなっていきますので、その異変に否応がに気づきます。

で、なんとか自分を立ち直らせようをしますが、気力もヤル気も枯れてしまっていて、うつ病のようになり、意欲が出てきません。大変な事態です。

それでも、自分に鞭を打ってでも「ナントカしないと」という焦燥感に駆られます。

ベン・スィートランド「自己を活かす」

そんな中、ベン・スィートランド「自己を活かす」という本を知ります。

この書は、創造主を感じながらポジティブ・シンキングの大切を説き、また人生で成功することを指南する「セルフヘルプブックス(成功術)」の走りでした。

この書によって、肯定的な見方の大切さを心底思い知ります。また一連の失敗により、自己をいたずらに否定し嫌悪する「有り様」「姿勢」そのものがマズいことを体感的に学びます。

そうして、これ以後、いわゆるマイナス思考・ネガティブな有り様に、注意を払うようになります。

ベン・スィートランド「自己を活かす」との出会いは転機となります。

この後まもなく、視点の転換が起きます。意識モードのチェンジとでもいいましょうか、変化が起きます。

今でこそ言語化ができますが、気づきに気づく「名色分離智」への開眼でした。自己の心を観察し続けていますと、こうした意識のモードチェンジ・シフトが起きます。で、これによって、善、徳、霊性というのがわかり始め、やがて開眼へ向かいます。

21才:人生を一変する一瞥体験

そうしている中、21才の年の12月の末に、書店で、秋山眞人さん(当時は春川正一さんというペンネーム)が別の惑星へ行ったという宇宙人の手記を立ち読みをしていたときに、突然、「目覚めの体験」が起きます。見性体験、一瞥体験、見神体験、聖霊体験ともいいますね。

これが突然、何の前触れもなく起きました。

言葉での説明は難しいのですが、この肉体は自分ではなく、宇宙といいますか、空間といいますか、世界が自分であるという実感です。しかも「神の愛」としか言いようのな強い歓喜を伴いながらの愛の意識の爆発・拡大が起きました。

叡智と神の愛がともなった宇宙意識、高次意識、超意識と言うこともできます。神にまみえる体験です。

この体験で、
・本当の自分を知る
・大いなる存在(創造主)を知る、創造主に会う
・宇宙意識、高次の意識への開眼
・神の愛を知る
・慈悲をはじめて理解する
・叡智に啓ける
・善悪、徳を直感的に理解
・本当の意味で善行・積徳を理解
・意識にいくつかの変容が起きる
・形而上の問題がほぼ全て解決する

ということが起きます。

16才から疑問を持ち続けてきた形而上・宗教的な疑問が、ほぼ全て氷解し、人生を一変させる強烈な体験となりました。根本的なところから救われた気持ちになったのは、言語を絶する安心感であり喜びでした。

慈悲は、心底知りたいと願っていたことですので、この味わいがわかったことは極めてうれしかったものです。

この体験によっていくつかの変容が起き、この体験を境にして、鬱々としたのが解消していくなど、いくつかの変化が起きました。

文字で書くと意味不明になりやすく、またオカルトや心の病気に思われやすいのですが、このようにしか表現ができません。根本的なところから変容する体験だったとしか言えません。

秋山眞人さんの別の惑星訪問記を読んでいるときに一瞥体験が起きる

ちなみに、その時、立ち読みしていたのは「UFO Contactee」という季刊専門誌です。初めて目にする季刊誌で「こんなのがあるんだ」と思い、なんとなく手にして読み始めたのですが、そこに秋山眞人さんの体験記が掲載。

32ページから掲載されている「私の別惑星訪問体験とアダムスキーの真実性 春川正一」という記事です。今ではネットでも読むことができます。

https://www.adamski.jp/gap-japan/ucon/ucon-095.html

宇宙人やUFOのことに関しては、それまでは「存在はしているだろう」とくらいにしか思っていませんでした。というのも、精神性の向上や愛、神、善、悟りとはまったく関係のないものだと思っていたからです。

しかもグレイと言われる気味の悪い宇宙人情報しか知らず、恐怖心を煽るのを感じていたため、宇宙人やUFOは、眼中にまったく無かったものです。

ところが秋山さんの手記には、カシオペア座の方向にある宇宙人達は、創造主を感じ、愛・人類愛にあふれ、善に生き、しかも高度な文明を形成し、理想的な世界にいることが書いてあり、非常に驚いたものでした。

「これが本当の宇宙人なのか・・・」。秋山さんの体験手記は、到底作り話には思えず、リアリティをもって差し迫ってくるものがあります。「作り話しではない、実体験だ」

そんな確信に満ち、猛烈に感動しながら、深くうなずきながら読み進めていたのですが、その途中で突然バーン!と自分が木っ端微塵に吹き飛んだかのような意識の拡大と、怒濤のような神の愛があふれてきたものです。

まさに言語を絶する歓喜、至福でもあり、人生を一変する変容体験となったのですが、当時は、この体験がどういうことなのかわからなかったものでした。

で、その後約30年にわたって誰にも言うこと無く胸に秘めるようになります。

説明困難

今ではどういう体験なのかを多面的かつ詳しく説明できます。キリスト教、仏教、スピリチュアル、その他にある類例を交えながらきちんとお話しすることができます。

しかし当時はどう説明してよいのかわかりませんでした。

そもそもUFOの雑誌を読んでいて、自己が吹っ飛んだ・無くなったとか、宇宙意識を体現したとか、神の愛を体験したとか言えば、ほぼほぼ100%、頭のオカシイ可哀想な人に思われるのがオチなことは容易に想像がつくわけです。

そもそも説明しようとしても、当時は説明のしようがありません。説明できる知識や観念もありません。

説明しようなら、しどろもどろになって「UFOガー」みたくなってしまい、周囲から「は?」「大丈夫?」「病気?」って思われるのは確定コースなわけですね。

てか、下手に言えば、そもそも人間関係がおかしくなったり、あるいは精神病院を紹介されるとか、かえってややこしくしてしまいます。

そういうことが予想されたため、家族にも誰にも言うこと無く、30年近く胸に秘めることになったものです。

そもそもこの体験は「どうも悟りとは違う感じがする」というのを感じていたというのもあるからです。

当時は、自分に起きたことが一体どういうことだったのかが、自分でもよくわかっていませんでした。

で、自分が体験したことをよりしっかりと定着させ、第二の天性になるまで身につけようと決意したものです。

また自分が体験したことは一体どういう体験なのかの答え探しにも乗り出します。

そうして新たな修行人生がスタートしたものでした。

目覚め体験(一瞥体験・覚醒体験)は何故起きるのか?

ちなみに、何故、こうした体験が起きたのかといえば、それは「心を観察し続けていたから」だと思っています。「自己観察」ですね。

心を観察し続けていると、覚醒体験が起きることは、クリシュナムルティも言っています。テーラワーダの瞑想も観察です。

しかも昔から似たような体験をした人もいます。それは、以下の著書をお読みになるとわかります。

悟り体験をよむ

宇宙意識/リチャード・モーリスバック

さとりをひらくと人生はシンプルでラクになる/エックハルト・トール

ダンマの顕現/玉城 康四郎

悟り系で行こう/那智タケシ

今、目覚める/ステファン・ボディアン

その他、多くの方が似たような体験をして、書にしたためています。これらとほとんど同じ体験が起きたということになります。

その後~利他行に励む

その後、紆余曲折を経ながら、様々なことを学び実践を続けます。20代、30代は密教の世界に身を置き、自分が体験したことを深め定着する修行や試みを行います。

ボランティア的な活動は心地よく、熱心に行いました。こうした行為は意識の高揚と拡大を助けます。だから古来、宗教では、利他の実践行を推奨しているんですね。

原始仏教では「四正勤」といい、ヨーガでは「カルマヨーガ」といっています。これらは高次意識の開眼と体現につながります。

無償の利他の実践行、ボランティア活動には精を出すようになりました。

その後、テーラワーダ仏教にシフトしてからの無償の瞑想会運営も同じです。こうした活動は楽しく、心地よく、うれしさを感じます。

潜在意識の活用

あと潜在意識の活用には相当に入れ込みました。高次意識・宇宙意識を定着させるために、潜在意識の活用を長年試みました。

しかし、なかなかうまくゆきません。実のところ、潜在意識を活用するアプローチには重大な欠陥があります。このことに気づきます。

そのきっかけとなったのが「テーラワーダ仏教」との出会いです。転機にもなります。

テーラワーダ仏教との出会いで激変

テーラワーダ仏教では「念(サティ)」「あるがまま」を強調します。「気づき」ですね。通俗的には「マインドフルネス」といわれています。

ボランティアや利他の実践、あるいは潜在意識の活用ではどうしても超えられなかった諸々や壁を、この「気づきの瞑想」によって、なんと超えることができました。

「ゴエンカ氏」の瞑想合宿のすごさ

中でも「ゴエンカ氏」の瞑想合宿は衝撃的でした。劇的なことが起きました。

なんと心の傷、わだかまり、トラウマが、かなり氷解して、非常に清々しくなり、その変化は、日頃一緒に生活をしている家族すらわかったほどでした。

非常にインパクトがあり、なおかつ心の様相を劇的に変えるテーラワーダ仏教に伝わる「観察瞑想」のすごさを如実に体験します。

潜在意識のワーク、何かになろうとするワークが抱える重大な問題

この体験がきっかけで、潜在意識を使うワークや、「何かになろう」とする姿勢そのものに、重大な欠陥があることに気づきます。

いえいえ、薄々気づいていましたが、ゴエンカさんの瞑想合宿の体験で、ハッキリしました。

結局、潜在意識のワークにしても、何かになろうとする姿勢は、自分の心に上書きをして、無理強いするのが本質なわけです。自分に対して、力ずくで「変えよう」とするわけです。スポ根精神ですね。矯正しようとする。

しかし、こうした力ずくで変えると、心は悲鳴をあげてしまいます。で、これが新たなストレスとなって、心の底にモヤモヤとしたものを生み出してしまいます。精妙なシャドーといいますか、抑圧です。

潜在意識のワークには、こうした知られざるデメリット、ネガティブさがあります。

こうしたモヤモヤしたのをずっと感じていましたが、代替なる方法論が分からなかったため、手を変え品を変え、あの手この手で、いろんなワークやテクニックを使っていましたが、「何かをする」という姿勢そのものに欠陥と問題があったわけです。

この手のやり方は、仕事や目標に対しては有効です。またカンフル剤のように瞬間的に心を切り替えるテクニックとしても有効です。しかし継続的に使って、心を解放させる成長させることを目的にすると、かえって問題が出てきます。

テーラワーダ仏教の観察瞑想・あるがままのすごさ

しかしテーラワーダの瞑想は、何かになろうとしないで、そのまま・あるがまま、観察を基本としています。

この瞑想のすごいのは、そうやって自然にしていると、心にある諸々が自然と浮上し、解消していく点です。あれやこれやといじくり回すと、かって問題がこじれる。

そうでなくて、そのまんまにしておけば、多少時間はかかっても、自然に解消していく。

この発想。この姿勢。

攻めるのではなく、見守る。

このプロセスにおいては、サンカーラ(不浄)の浮上という現象があって、これに苦しめられることはありますが、しかしやがてスッキリとしていくようになります。

そうして、自己の内面にある輝きや徳性、善性が、自然に出てくると思います。

こうした有り様は、潜在意識の活用や「何かになる」「目指す」といった姿勢とは、まったく味わいが異なります。ナチュラルな善さが感じられます。

テーラワーダ仏教の瞑想を広めたい

こうしたことがあって、それまで行っていた潜在意識の活用は控えて、「気づき」「あるがまま」を中心とした修行に変わりました。

それと「こんなに素晴らしいテーラワーダの瞑想は、もっと世の中に知られたほうがよい!」と思うようになります。

こう思うようになっている頃、ちょうどテーラワーダの比丘とご縁をいただいて、瞑想会開催のお話しをいただくようになります。もう小躍りする気持ちで、喜び勇んで瞑想会の開催を始めました。それが10年以上に及ぶ瞑想会の運営です。

やわらかくやさしいテーラワーダ仏教

テーラワーダ仏教には、いくつかの瞑想の仕方がありますが、ほぼどれもが素晴らしく感じられて、大変魅了されたものです。

なんといっても、こう言っては申し訳ありませんが、日本の仏教とは違って、明るく、やわらかく、風通しもよく、きよらかな感じがあって、こうした感じが非常に肌にあったものです。

日々の瞑想は欠かさず、瞑想修行をゆるりと毎日行うようになります。

瞑想を続けていたところエネルギーに開眼

そんなテーラワーダ仏教の瞑想を続けているある日、エネルギーが開眼する体験がおきます。

この体験も言葉での説明は難しいのですが、いわゆるエネルギーの上昇が軽く起きて、意識が四方八方に広がりながら気・エネルギーが開く体験です。

こうしたことが自然に起きました。これ以降、気・エネルギーが流れるなどの感覚が生じています。

この感覚は、全身がマッサージされているような心地よさと法悦のような喜びが渾然一体となった心地よさです。これは外部、特に天空からエネルギーが降り注いでくる感覚があります。こうした体感はリアルにあります。

霊のお祓い・供養ができる?

実際、2015年に、覚者といわれているレナード・ジェイコブソンのリトリートに参加したとき、自分の有り様がある所を通過していることを示唆し、将来ゴールに達することを言われています。レナード・ジェイコブソンからのアドバイスで確信が得られたというのがあります。

また2019年に、気功家であり霊能者である方が、私の気をみて「上空からエネルギーが入っている」と見抜いて、「霊のお祓いや供養ができる」と言いまして。

この手の話しは、第三者には理解不能になりやすく、オカルトとか心の病などと勘違いされやすいため、話しがしにくい性質です。

けれどもこの方の指摘を聞いて、「ああ、やはりそうなんだなあ」と納得し、わかる人にはわかることを知り、こうした話しをする勇気も出てきたものです。

ちなみに霊のお祓いにピンと来て、試しにヒーリングをしたところ、本当にできまして。ヒーリングを受けた相手はエネルギーを強く感じたり、体が動く自発功が起きることもあります。

エネルギーの開眼は慈悲がポイント

こうしたエネルギー体験が自然に起きたのは、手前味噌ながら、慈しみの実践・利他の実践を、長年続けていたことが最も大きいと感じています。

事実、自然にエネルギーが開花した人の多くが、道徳的だったり、利他を重んじているなどの傾向があります。

こうしたエネルギーの開眼は決して偶然ではなく、慈しみの心や行為は、必須の条件ではないかと思います。

それ故に、仏教でも戒律を定め、また慈しみの実践を重視しているんだと思います。このことは体験的に、そう思います。

キリスト教の「聖霊体験」もハートのエネルギー体験

ちなみにキリスト教の信仰では「聖霊体験」と言われる、愛の爆発体験もありますが、これもエネルギーですね。

「聖霊」とはエネルギーのこと。「父・子・聖霊」は3つとも同じといいますが(三位一体)、これは聖霊(エネルギー)を通して父(創造主)と子(イエス)を体験して知ることの教理的説明なんだと思います。

慈悲が能力を育む

能力を開発する、高める秘訣は「慈悲」。慈悲の実践のプロセスで、不思議な能力などが生じてくるんだと思います。

話しが脱線しますが、こうした気感やエネルギー感覚からみると、天啓気療院の北沢勇人先生は、本当に素晴らしい方だと思います。何かお悩みを抱えている方は、天啓気療院の北沢先生のヒーリングを受けることをおすすめいたします。⇒天啓気療院

話しを戻しますが、「慈悲」の裏側には「能力」があります。これがわかりますと、能力の本質がわかってきます。

畢竟、能力とは、自分だけでなく周囲や社会を益するために授けられたギフトです。能力は、自分のためだけに使うのは望ましくありません。

誰もが持っているその能力は、自分の手の届く範囲でいいですので、自分も周囲も益するかたちで使うのが望ましいですね。そうすると、次第に能力も高まっていくようになります。そのピークがエネルギー体験です。

奉仕・ボランティア精神は大切

社会に向かって大きな活動をする必要はないと思います(それが無理でないなら、大きな活動をするのはいいですね)。また高い能力があるからといって、決して有名になったり著名になったりする必要はないと思います。

まずは、自分の手が届く範囲で、慈悲の実践を行い、自分でできることを(能力を発揮できることを)行って、周囲を潤わせていく。これがスパイラルに、自然に進んで行くことがいいんじゃないかと思います。

瞑想の極意は徳・善の力

なお瞑想についていえば、瞑想とは、畢竟、徳の力・善の力といえます。といいますか、徳・善を身につけるために瞑想という手段があるといえます。

徳・善、徳の力・善の力、これこそが瞑想の本質であり、瞑想を進めていく要諦であり、瞑想とは徳の力・善の力を高めて、そこへ溶け込んでいくプロセスともいえます。

徳の力・善の力は、瞑想と表裏一体です。また積徳や善行をし続けることで、瞑想が進み深まっていくようになります。

ちなみに徳や善は、教条的に書かれた戒律や道徳ではありません。文言化された戒律や道徳から取りかかりますが、やがて言葉を超えて、エネルギーとして体感し、習得し、深めていくようになります。

そうして徳や善エネルギーに溶け込んでいくようになります。

ですので古来より、積徳や善行が推奨されてきているんですね。

仏教でもそうです。老子の道教もそうです。キリスト教修道院の原型となったエジプトのテラペウタイもそうです。世界中のすべての修行実践では、徳や善を重んじていますし、徳や善に溶け込むことで禅定、一、神と一体化もしてまいります。

瞑想実習における徳や善の視点は非常に大切になります。

ここを外すと、オカルトやアストラル界的なスピリチュアル、過酷な修行に励んで神秘的な能力のみを追求してしまう低いアストラル界や天狗界へ向かうようになって、道を違えます。

井上義衍老師系の禅にシフト

他にもいろいろとありますが、煩雑になりますので割愛しますが、その後、2020年には、禅にシフトしています。

どうしてシフトしたのかの理由を説明をすると、これまた長くなりますので割愛しますが、本当に悟るためには、禅(井上義衍老師系の禅)が望ましいと思うようになったからです。

けれども、私にとってテーラワーダ仏教は、今でも軸になっています。水が合うといいますか、肌が合うといいますか。心地よく、気持ちよく、明るさとハートを感じる、私にとってオアシスとなっています。ですので、今もテーラワーダ仏教をリスペクトしています。

テーラワーダに限らず、ハートの波動、やわらかさに水が合うといいますか惹かれます。

縁ある方々の目覚めのお手伝い

このように、様々な体験を経て、目覚めの体験や神秘体験を重ね、スパイラルに進み、現在に至ります。で、現在(何年も前から)、ご縁のある方がの「目覚め」をサポートさせていただくことが喜び、楽しさ、生き甲斐にもなっています。

ご縁のある方々が、プレゼンスにひらけ、ハートにひらけ、霊性に開眼していく。それは気持ちいいもんです。

で、実際、数名の方が、プレゼンスにひらけています。で、いったんプレゼンスにひらけると、しばらくの年月の後にハートの覚醒が起きるようになります。また霊性の開眼へと進んでいきます。

もちろん進み方は人によって違ってくると思いますが、プレゼンスは必須ですね。最初の通過点としています。ちなみにプレゼンスとは、テーラワーダ仏教では名色分離智といっています。

ご縁のある方にはサポートをさせていただきたいと思っています。ただ精妙な領域を取り扱いますので、誰でもOKというわけではなく、その方の下地や条件などを感じ取った上でのサポートになりますが、求めている方にはアドバイスなどを通してお手伝いをしたいと思っています。

フィーリングが合えばうまくいきやすいと感じています。何か感じる方はご連絡をいただければと思います。ZOOMでお話しすることもできます。

⇒お問い合わせ・ご連絡はこちらから

実践を重んじる

そんなわけですが、「いまここ」「あるがまま」を軸とする実践主義といいましょうか、そんな有り様です。

また、言葉や観念は、自分の体験を表現する手段、道具という感覚です。

・自己観察
・潜在意識の活用
・テーラワーダ仏教
・アドヴァイタ
・ヨーガ
・ダスカロス
・キリスト教神秘主義
・気功
・ヒーリング(天啓気療)
・禅

これらは学びとなり影響も受けています。

そして「ハート」「慈しみ」を大事にしています。

ハートのある文脈で語ることをモットーとしています。
大いなる存在、天界、天人、神々を感じながらの生粋のスピリチュアリスト。

輪廻転生は、最初に書いた通りで、幼少期の頃から実在していることを実感。

「わかることはわかる、わからないことはわからない」がはっきりしています。

精神修養系の流れにある悟り・解脱派です。

繰り返しになりますが、また最初に書いた通りで、
いわゆる「スピリチュアル」や
ふわふわし過ぎたスピリチュアル、
妄想系は苦手です。
また能力開発系もご遠慮です。

リアルな現実を踏まえた
「現実派スピリチュアリスト」。
「浮き世離れしない悟り・解脱派」
こういう感じですね^^

南国のような雰囲気が好み。
ボサノバやアンビエント好き。

そんなゆるっとした感じで、
天然自然なよろこびに
あふれているのがいいですね。

まとめ

以上、ザックリとした駆け足の自己紹介です。

修行をすれば、陥る落とし穴には、ほぼほぼ全て陥ったと思います。経験値は豊富じゃないかと思います。

親しい瞑想仲間には、以上のことはお話ししています。オカルトや奇人変人に思われるとか、誤解を受けたり、また自己顕示欲じゃないの?とか、あるいは自分自身が変におごり高ぶって自我の肥大を起こしてはならないと思い、長い間、ほとんど黙ってもいました。

けれども、こうした体験や経験が、もしかすると、人によっては「お役に立てるのではないか?」と思うようにもなってきています。

上記のダイジェストには、修行の要諦をいくつか書いてあります。こうした要諦を押させて修行をしますと、おそらく同じような体験をされるのではないかと思い、それで思い切って書いてみました。

本当は、誤解がないように詳しく丁寧に書く必要があると思いますので、それは追々記していこうかと思います。

誤解を招きやすい話しではありますが、意をくみ取っていただければ幸いです。

ちなみに2021年に1年間を通して行った「原始仏教講座」は、こうした体験を踏まえた講座だったりします。https://healingmusic.hamazo.tv/e8982701.html

連絡先はこちら。
https://www.yurusanga.com/mail/

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